自転車に初めて乗れた日

 穏やかな風が髪を撫でる。
 大の字になってひっくり返った俺は、空をのんびりと流れる雲を目で追っていた。

 ―――なんて、いい天気。

 自然とそんな言葉が心の中に流れて行った。
 それは、今の自分の置かれた状況を忘れる為の現実逃避でしかなく―――

「ちょっと士郎〜。いつまで寝そべってる気よ〜!」
「ほら、早くしないと日が暮れるぞ」

 案の定良く知った顔が二つ、空と俺の間に割り込んできた。

「………まったく。お前らには空を眺める余裕も無いのかよ」

 よっという掛け声と共に、少しだけ勢いをつけて体を起こす。
 タイミング良く両側に避けた二人の顔を交互に見つめ、はぁっと大きなため息を吐いた。

「少しはのんびりと空を流れる雲を見つめて、物思いに耽る時間とかも大事なんじゃないのか?
 そんなだから藤ねえはいつまで経っても子供だ子供だ言われ」

 ―――ゴチン!

「〜〜〜〜〜〜ッ!!!」

 全部言い終らない内に、ポニーテールの高校生・通称『藤ねえ』のゲンコツが俺の脳みそを揺らした。

「そういう台詞はちゃんと自転車に乗れるようになってから言いなさい!
 誰の為に切嗣さんと二人して、朝から士郎の練習に付き合ってあげてると思ってるのよー」
「……ってぇなぁ! この暴力女!」
「またそんな口の利き方してぇ! 年上は敬いなさいっていつも言ってるでしょう!」
「年上だからって敬える相手かどうかくらい、自分で判断出来るさ」
「なにぃ! それは、このお姉ちゃんを敬ってないってことかな士郎〜〜〜」
「敬って欲しかったら、敬ってもらえるようなことしてみろってんだ」
「あっはっは。士郎も言うようになったな」
「切嗣さんも笑ってないで言ってやって下さいよー!」
「いやぁ、でも士郎の言うことも一理あると思うんだ」
「えぇ!?」
「ほら見ろー!」

 俺たちの笑い声が高い高い空へと昇っていく。
 随分と昔からこうであったかのように。
 こうあるのが当たり前であるかのように。
 俺は今、この人たちと一緒に……ココにいる。

「さてと。一人前の発言した士郎になら、もうこれは乗りこなせるだろ」
「げ」

 俺と藤ねえのやり取りを、煙草を吹かしながら眺めていた親父――爺さんが、片手でひょいっと公園に転がっていた“モノ”を本来あるべき姿に起こした。
 俺の中に、一瞬忘れていた現実が戻ってくる。

「今日は乗れるようになるんだったよな。言ったからには実行しないと」

 にっこりと、爺さんはその穏やかな顔に満面の笑みを浮かべ、爺さんには小さすぎる“ソレ”を俺の元へと転がしてくる。
 朝からこの公園に来て、お昼をみんなで食べ、今に至る間に数え切れないほど転がった俺と自転車は、見事なまでにあちこち擦り傷だらけだ。
 だが、これに乗れないと深山町で暮らすには何かと不便だし、何より『自転車に乗れない』のが理由で爺さんに置いていかれる日々をどうにか卒業したくて、恥じを忍んで特訓を申し入れたのも俺の方だった。

「う〜〜〜……わかったよ! 乗ればいいんだろ! 乗れば!!」

 こうなったら自棄だ。
 必ず乗れるようになって、今日は爺さんと一緒に買い物へ行ってやる! もちろん自転車で、だ!
 心の中で決意を新たにすると、俺は爺さんから自転車を受け取り、威勢良く跨る。
 後を振り返れば、爺さんが自転車の一番後の部分を支えていてくれるのが確認できた。

「こ・ん・ど・こ・そ! 俺が良いって言うまで、ちゃんと持っててくれよ」
「はいよ」

 爺さんは煙草を咥えたまま、穏やかに鉄壁の微笑みを返す。
 釘を刺した――つもりなのだが、さっきから爺さんは一度たりとも俺の言うことを聞いてくれてはいない。
 まだ離すなよって何度も叫んでるのに、返事が少しずつ遠くなっていくことに気付かないとでも思っているのだろうか。

「すー はー すー はー……」

 深呼吸を数回。
 ペダルに掛けた右足に力を込める。

「士郎」

 前へ漕ぎ出そうとした瞬間、爺さんの声がその動作を遮った。

「……なにさ」
「イメージは出来ているか?」
「イメージ?」

 不機嫌そうに振り向いた俺に、爺さんはそんなことを言ってきた。

「あぁ。前へ進むイメージ」
「前へ進む……?」

 俺は爺さんの言葉を馬鹿みたいに反芻するだけ。

「君は、自転車に乗るってどんな感じだと思う?」
「そりゃぁ早くって、便利で、疲れなくて」
「そうじゃなくて。自転車に乗ってる士郎には、どんな景色が映ってる」
「…………」

 言われて前を見る。
 なんとか足が届く程度の高さに調節されたサドルのお陰で、俺の視線はいつもよりも少しだけ高い。
 開けた視界は、開放感すら感じられた。

「その景色が、自分で走るより早いスペースで流れていくんだ」
「!」
「そら、漕いでみろ」

 後ろから力強く押される。
 その勢いを利用して、ぐっとベダルの重みを感じながら足を動かすと、少しずつ自転車は前へと動き出した。

「そうだ。両足に交互に力を入れて」
「いっちに、いっちに! みーぎ、ひーだりっ!」

 藤ねえの調子が外れた掛け声が、今回は頭に入ってこない。
 前だけをしっかりと見据え、流れていく景色に自然と集中していく。


 ―――ひょぉぉぉう

 あぁ。風が―――俺は、空気を切って走ってる。


 多少前輪はぐらついているものの、今までよりずっと遠くへ走っているのが自分でも判る。
 自然と視線は遠くへ移り、止まっていた時よりも自分の背が伸びたような錯覚に陥る。
 思っていたよりもずっと早く、見知った景色が通過していく。
 自然と漕ぐ両足にも力が入り、ぐんぐんと前へ前へと風を受けて走っていく。

「しーろーうーーーっ! 乗れてるよ〜〜〜〜!!」
「え?」

 あまりにも遠くで藤ねえの声が聞こえたために、思わず後ろを振り返った。
 爺さんがすぐ後ろにいるのかどうかも確認できず

 ―――がっしゃーん!

 けたたましい金属音を立てて、俺と愛車はひっくり返っていた。

「い……ってぇ………」

 ある程度スピードが出ていたため、転び方も派手だった。自然と傷みも派手に感じる。
 あーこれ、腰とかヤバイかもしれない。
 うずくまったまましばらくピクピクしてると、やっと追いついたのか、二人の足音が近づいて来た。
 爺さんの奴、最初押しただけで、後はずっと手を離してたんだな……!

「士郎やったねー! 今50mくらい走れてたと思うよぅ」
「ぐえッ! 藤ねえ乗っかるな!! 痛い! そこ痛てぇーーーっっ!!!」

 突進して来た虎に圧し掛かられ、傷だらけの俺の体は既に限界だ。
 だが、どんなに泣き叫んでも爺さんは笑ってるだけでちっとも助けてくれない。
 くっそぉ……二人とも覚えてろ。

「乗れたな、士郎」
「……ふふふ、見たか。これでもう留守番は無しだぞ」

 ふんぞり返りたい所だが、藤ねえに乗っかられたままで正直キマらない。
 しかもあっちこっち痛いし。

「うん。じゃぁ、もう少し練習したら一緒に買い物に行こうか」
「!」

 頬が綻ぶ。
 やっと、やっと爺さんと並んで走ることが出来るんだ。

「――っしゃ!」

 あんまりはしゃぐのは子供っぽいから、出きる限り小さく、でも力強くガッツポーズした。
 そんな俺の頭を、くしゃりと爺さんの大きな手が撫でる。
 正直撫でる……なんて優しいものじゃなくて、わしゃわしゃと髪を掻き回して、力任せに抑えつけられてるような手だった。でも、俺にはその大きな手は俺を救ってくれた手で。

「痛っ! 痛いって爺さん!! っていうか藤ねえ、いい加減どけよ!!」

 一度コツを掴んだ自転車はあっという間に上達したけど、その後一度も転ばなかったわけじゃない。
 痛かったし、傷も増えた。でも、何度も何度も立ち上がって、何度も何度も練習した。
 そうするのが当たり前の様に。出来ることをひとつでも増やすために―――
 藤ねえの大きな声が響き渡る。
 爺さんが俺たちを見守る。
 自転車に始めて乗れた日、二人の笑顔とバックに映る青い空が、俺の瞼にくっきりと焼き付いていった。
writed by あらたゆん



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