Vacant Space

 ――第一印象は最悪だった
 ――無愛想で、怒ったような口調
 ――子供らしい可愛げなんて、カケラも無かった



「はあ。それでまたケンカしたわけ? 藤村らしいというか、大人気ないというか」
 細目の女生徒があきれた口調で呟いた。やれやれと首を振る。長い黒髪が動きに合わせて左右にゆれた。年齢のわりに、かなり落ち着いた雰囲気だ。
 あきれられた方は子供のように口を尖らせ、ぷいと顔を背けた。こちらも女生徒だ。茶色の髪をポニーテールにまとめている。動くたびに髪の尻尾がひょこひょこ跳ねて、活発さを強調していた。横を向いたまま不満をこぼす。
「むー。だってわたしのこと、あだ名で呼ぶんだもん」
「へえー。前にこっぴどく怒ったって言ったよね。それでもアンタのこと、あだ名で呼ぶんだ」
 細目の女性徒は頬杖をつきながら、ニヤリと笑った。好奇心を刺激されたチャシャ猫のような顔だった。茶髪の女性徒はしぶしぶ相手の言葉を認めた。
「……あの子って、根性と負けん気だけは、呆れるほどあるのよねー」
「いいね。藤村にそこまで言わせるなんて。鍛えればモノになりそうじゃん」
 二人は弁当箱をつつきながら、のんびりと会話を続けた。一見すると、どこにでもいそうな仲の良い女の子たちに見える。
 しかしながら、周りの生徒たちは警戒するように二人から距離を置いていた。この二人はいつ、何のきっかけでケンカを始めるかわからないからだ。
 それも当然。二人は穂群原学園の暴走コンビとして有名だった。
 細目の女生徒は蛍塚音子。通称ネコ。新都にある酒屋コペンハーゲンの一人娘だ。普段は温厚な文系女子だが、怒らせると怖いという噂がある。
 ポニーテールの女生徒は藤村大河。剣道部のホープにして通称『タイガー』。本名よりもあだ名で親しまれている。ただし、言った瞬間に暴れだすので、面と向かってあだ名で呼ぶ者は滅多にいない。怒らせると楽しいという噂がある。
「まあ、あれだ。藤村としてはその子と仲良くなりたいん?」
「うん。切嗣さんの前でケンカばっかりするのも、どうかなーっと思って」
「好きな人の前では可愛くしたいと!? 藤村にそんなデリカシーがあったなんて!」
「ワザとらしく、驚いた顔をするなー!」
 興奮した大河が机をバンバン叩いた。周りの学生たちは更に遠巻きになった。
 二人とも周囲を全く気にすることなく、会話を続ける。
「はいはい。怒らない怒らない。確認するけど、その家に奥さんはいないん?」
「うん。切嗣さんとその子の二人だけ。……奥さんはどうも亡くなられたみたい」
「そっかー」
「それがどうかしたの?」
「いや。不倫なら友達として止め……じゃなくて。
 お母さんがいないなら、その子もさびしいだろうなーと思って」
「そんなそぶりは見せないけど。可愛げないし」
「一生懸命、我慢しているのかもよ。ちょっとは優しく接したら?」
「我慢して優しい言葉をかけても、『なにネコ被ってんだ。虎のクセに』みたいな目をされちゃうのよー」
「……それはそれで、実に適切な見解だと思うけど」
「ネコー。もっと具体的な打開策は無い?」
「アンタはそのままが一番だと思うけど。素直だから誰にでも好かれるし。だいたい、アタシが下手に策を与えたとしても、アンタじゃ絶対にうまく実行できずに――
 ――わかったわかった! ちゃんと考えるから、恨みがましい目つきで見ないの!」
 蛍塚はこっそりため息を吐いた。面倒だがしかたながい、と言いたげな顔をしつつ口を開く。
「そうやねー。子供ならモノで釣るのが手っ取り早いん違う? オモチャを買ってあげるとか、お菓子を食べさせてあげるとか」
 やや安直な案に走った蛍塚の言葉に、大河は腕を組んだ。渋面で自分の思考に没頭する。過去の懐柔策とその失敗を思い出しているのだ。

 道場で稽古に付き合っている時に、タイガーと呼ばれて逆上し、お尻を竹刀でひっぱたいたとか。
 ピンクの子供用エプロンをプレゼントして、『俺は男だ!』と怒らせたとか。
 買ってきたケーキの取り分で揉めて、プロレス技をかけたとか。

 ロクな思い出がない。よくよく振り返ってみれば、自分でも仲良くしようとしたのか、ケンカを売っていたのかわからなくなってくる。
 しばらく悩み、やっとのことでプラスの要素を思い出した。体育会系の伝統『同じ釜の飯を食った』というヤツだ。
「うーん。ご飯なら一緒に食べてるけど。最近じゃ、おいしいものも作れるようになったのよね」
「ま、マジで!? 藤村がまともな料理を作れるようになったなんて! 恋する乙女は偉大やねえー!」
 大河の発言を微妙に勘違いしたらしい。蛍塚は本気で驚いている。とは言っても目は少しも見開かれていないが。その代わり八重歯がしっかり見えていた。彼女の感情の起伏は、八重歯の見え方に現れる。
 彼女たちの周囲も、ざわざわと騒がしくなった。盗み聞きする気が無くても、大河たちの大声は自然と聞こえてしまうのだ。
 藤村大河は料理が苦手なことで有名だった。食べられるか食べられないか、ギリギリの限界を追及する行為を『料理』と呼んでいいのならば。
 家庭科の実習では『これほど料理に向かない女の子がいるなんて』と教師を嘆かせた。剣道部ではサボリの罰を『藤村大河の料理を食べる』に変えようという案も出ている。
「いや、作っているのはその子。食べているのがわたしー」
「……は? その子、小学生なんだよね?」
 本気で感動しかけた蛍塚には、大河の言葉がすぐに飲み込めなかった。小学生に飯をたかる高校生など、蛍塚には想像もつかなかったらしい。ましてや男女の立場まで逆転している。
「うん。最初は失敗ばかりだったけど、最近はずいぶん良くなったの。
 ――でもその代わり、お願いしないと食べさせてくれなくなってきたのよー。いじわるだよねー」
 大河は頬を膨らませて、ぷりぷりと不平を漏らす。そんな大河を前に、蛍塚はガックリと机に突っ伏した。
「…………餌付けされてるの、アンタの方じゃん…………」



                 ◇  ◇  ◇



 翌朝、大河は妙に気合の入った顔で衛宮邸を訪れた。
 最近は部活が忙しくて、なかなかこの屋敷を訪問できなかった。その分、この休みの間は切嗣にべったり甘えるつもりだった。蛍塚に言わせれば『ハジに辛うじて引っかかっている』とはいえ、大河も恋する乙女であることに違いはない。
「こんにちわー。お邪魔しまーす」
 ガラガラと玄関の戸を開けて、返事を待たずに居間へ向かう。この家の住人とは、既にそれが許されるくらいには親しくなった。もっとも、親しくなる前から同じコトをしていたという話もある。
 居間の障子を開けると、二人の男性が大河のほうを向いた。
 一人は中年と青年の中間くらいの年齢だった。着物を着てテーブルの前に座っている。広げていた新聞をガサガサと降ろして、『やあ』と気楽に挨拶してくる。
 わりと整った顔立ちだ。ぼさぼさの髪と伸び放題の無精ひげがなければ……と言うのは近所の奥様方の感想。口元にはよれよれになったタバコが張りついていた。フラリと現れ、冬木市に住み着いたこの男の名は、衛宮切嗣という。大河の想い人にして衛宮邸の主である。
 もう一人はぶかぶかのエプロンを着けた赤毛の子供だった。同世代の子供と比較するとやや背が低い。ムッとした表情で大河を睨みつけている。『また来た、コイツ』と目で語っていた。名前は衛宮士郎。切嗣の息子にして、現時点における大河の宿敵だった。
 大河はケンカにならないように、士郎から視線を外した。今日の彼女の課題は我慢である。蛍塚からは『仲良くなりたければ大人になれ』とアドバイスされていた。大河が視線をそらした先にはテーブルがあった。テーブルの上には二人分の朝食が並んでいる。焼いた塩鮭にほうれん草のおひたし、目玉焼きや納豆もある。大河の顔がほころんだ。
「あ。今日もおいしそうー」
「タイガーの分はないぞ」
 士郎は大河に先制攻撃をくわえた。大河は叫びたくなるのをぐっと耐えた。重ねて言うが、今日の彼女の課題は我慢である。
「おいおい、士郎。女の子に意地悪しちゃダメだって、いつも言っているだろう」
 切嗣が苦笑しながら助け舟を出した。大河は切嗣の優しさに感激した。目をキラキラさせながら切嗣に向き直る。
 ……ちなみにキラキラというのは、本人の主観である。士郎は『飢えた虎の目だ』と評していた。
 士郎は不快感もあらわに、太い眉を盛大にしかめた。
「意地悪なんかしてないぞ。タイガーはこの家の人間じゃないから、タイガーの食べる分なんて用意してないだけだ」
「じゃあ、台所にもう一人分の食事があるのは何故だい?」
「そ……それは」
 ニヤニヤしながら切嗣が切り返す。士郎は言葉に詰まった。気づかれていないつもりだったらしい。大河は腰に手を当てて、得意げに胸を張った。
「へへへー。士郎ってば、素直じゃないんだから」
「違う! アレは非常食だ! 意地汚い虎がいつも食卓を荒らすから、予備の食事も作っておいたんだ!」
 むきになった士郎が反撃した。大河は手が出そうになるのを、ぐぐっとコブシを握り締めてこらえた。今日だけで、彼女の持てるすべての忍耐力を使い果たしそうだった。
「はいはい。じゃあ、僕の分を大河ちゃんにあげるから、二人で食べなさい。僕は今日、食欲がないんだ」
「む……爺さんはもっと食べなきゃダメだって言ってるだろ」
「そうですよ。切嗣さんはもっとモリモリ食べて、元気にならないと!」
 切嗣は意外と食が細い。いつもどこか元気がないように見える。病気は持っていないと言うが、食事の量は大河はもちろん士郎にすら及ばない。士郎が料理を覚えたのは、そんな切嗣を心配してのことだろう。大河が切嗣と一緒に食事をしたがるのも同じ理由だ。
「うーん。そうだね。二人がおいしそうに食べてるところを見ると、食欲もわいてくるんだけどね」
「……わかったよ。タイガーの分も持ってくる」
 士郎はしぶしぶといった感じで台所へ向かった。ズルズルとエプロンのスソを引きずっている。大人用のエプロンだからサイズが合ってないのだ。それでも無理やり着けている辺り、意地になっているらしい。大河がピンクの子供向けエプロンをプレゼントしてから、毎日無言の反抗を続けている。
 大河はおとなしく座布団に座った。内心では『ピンクのエプロン、似合うと思うんだけどなー』と士郎が聞いたら怒りそうなことを考えていた。
 金属製のトレイにおかずを載せて、士郎が台所から戻ってきた。体のサイズの割りに大きなトレイを使っている。あれではトレイが大きすぎて足元が見えないだろうと大河は思った。傍から見るとかなり危なっかしい。
「士郎。そこの炊飯ジャーにつまづかないようにねー」
「わかってる」
 大河は余計なお世話かもしれないと思いつつも忠告した。士郎はむすっとしながら言い返す。わざとらしい大股で炊飯ジャーを迂回した。
 どうやらそれがまずかったらしい。士郎はエプロンのスソを踏ん付けてしまった。足がもつれて前に転ぶ。
 士郎の手から離れたトレイが回転する。上に載っていた焼き鮭や目玉焼きが、ふわりと宙に飛ぶ。
 とっさに大河は立ち上がった。
 だが、とても間に合わない。
 飛び散った朝食を想像して、大河はぎゅっと目を閉じた。

 ……いつまで経っても皿の割れる音はしなかった。
 大河は恐る恐る目を開けた。テーブルの反対側にいたはずの切嗣が、いつの間にか目の前に立っていた。何事もなかったかのように、右手にトレイを掲げている。トレイの上には、宙に飛んだはずの料理が整然と並んでいた。おまけに、切嗣の左手は士郎の襟首をつかんでいる。士郎の顔面は畳を強打する直前で停まっていた。
 大河は目を丸くした。彼女は剣道の有段者であり、素早さでは誰にも負けない自信がある。だが、己の倍の速さをしても、そんな芸当は不可能だ。少なくとも三倍の速さが必要だろう。まるで映画の中の出来事だった。大河は呆然と呟く。
「…………切嗣さんって、スーパーマンですか?」
「実は、僕は魔法使いなのだ」
 切嗣はくわえたタバコをくねらせ、ニヤリと笑った。


 昼食後、大河は縁側に座って空を眺めていた。今日は良く晴れている。青い空の中、白い雲が気持ち良さそうに浮かんでいた。
 士郎は昼食の片づけをしている。切嗣は用事があると出かけてしまった。
 午前中は三人とも道場にいた。大河は切嗣と士郎が竹刀で打ち合うのを眺めたり、士郎を適当にあしらって遊んだ。士郎は子供にしては素早いが、動きに型がない。竹刀をむちゃくちゃに振り回すだけだ。剣道の有段者である大河の敵ではなかった。
 そんな大河も、切嗣の動きはまるで捕らえられなかった。切嗣も士郎と同じく特定の型がない。士郎との違いは切嗣の動きが読めないことだった。大河の直感は鋭く、相手の動きを瞬時に察知できる。対戦相手が剣道の高段者でも、直感に任せて互角に戦えるほどだった。ところが切嗣は遊び半分にも関わらず、常に大河の直感を上回った。動きの早さではない。二手先、三手先を読んで動くのだ。大河は意地になって竹刀を振るったが、結果はいつも同じだった。追い込んだ筈なのに、いつの間にか逆に追い詰められてしまう。
「……ほんと、どういう人なんだろ」
 切嗣は自分のことを魔法使いだと言ってはぐらかす。もちろん大河は信じていない。
 祖父の雷画は相当の修羅場をくぐりぬけた男に違いないと語った。士郎も何か知っているようだが、大河には教えてくれなかった。
「実は加速装置をつけたサイボーグとか……うーむ」
「なに馬鹿なこと言ってんだ。タイガー」
「タイガーって言うな!」
 大河は怖い顔をして、後ろを振り返った。すぐに相好を崩す。
 士郎はトレイにお茶とお茶菓子を用意して立っていた。縁側でのんびりするつもりだったらしい。
「約束は、約束だからな」
 士郎は縁側にトレイを置き、大河の横に腰かけた。
 二人は午前中の稽古で賭けをしていた。士郎が大河に一発も当てられなかったら、昼食とおやつをご馳走する。ついでに午後は一緒に過ごすという賭けだった。途中で大河が本気を出しかけて、あやうくそれどころではなくなりかけたが。
 ともあれ、賭けは大河の勝ちだった。そして士郎は約束を守る男だった。
 大河は大福をつまみ、お茶をすすった。横で士郎も大福にかじりつく。
 士郎は両手で大福を持ちながら、もきゅもきゅと口の中のカケラを咀嚼する。膨らんだほっぺたがリスみたいだと大河は思った。こういうところは年相応の子供らしい。いつもの不機嫌な表情とはギャップがありすぎた。大河は我慢しきれず、クスリと笑った。
「……何か、おかしいのかよ」
 たちまち士郎が口を尖らせた。普段なら憎たらしく感じる顔だ。だが、今の大河には余裕があった。落ち着いて見ると、すねた子犬のような愛嬌を感じた。
「ううん。なんでもなーい」
「む……なら、いいけど」
 大河は微笑みながら空を見上げた。士郎はあてが外れた様子だった。大河なら反撃してくると決めつけていたらしい。警戒するようにちらりと大河の顔を盗み見た後、士郎は再び大福をかじり始めた。
 母親の心境ってこういうものかなー、と大河は考えた。たったそれだけのことで、自分でも驚くほど優しい気持ちになれた。蛍塚に『母親がいないから、その子もさびしいのではないか』と言われたのが影響しているらしい。
 考えてみれば、士郎は小学校の低学年だ。まだまだ母親に甘えたい年頃のはずである。誰かに甘えたい内心を押し殺し、気丈に振舞っているのかも知れない。大河は士郎の本心に近づきたくなった。
「切嗣さん、出かけちゃったねー」
「ああ。夕方には帰ってくるさ」
「……ついて行きたいって思わないの?」
「オトナにはオトナの事情ってヤツがあるんだろ? それぐらい我慢できるぞ」
 大河はあまり我慢したくなかった。できれば切嗣について行きたかった。
 なんとなく士郎の達観した様子が気に食わない。先ほども士郎がさびしがれば、切嗣は自分たちを連れて行ってくれたかも知れないと思った。
 そう思うと、是が非でも士郎の口から『さびしい』と言わせたくなった。
 さびしいなら、素直にさびしいと言えばいい。それが大河の考え方だった。
「ふーん。士郎は偉いんだ。まだおねしょするくせにー」
「バカ言うな! おねしょなんてしてないぞ!」
 士郎は顔を真っ赤にして抗議した。大河はクスクスと笑いながら、庭の片隅を指差す。
「じゃ、アレはなに? わたしには布団を干しているように見えるんだけどなー」
 青い空の下、子供用の布団が風に揺れていた。この家に遊びに来ると、いつも見る光景だ。士郎はぶすっとした顔になった。
「寝汗をかいたから干しているだけだ」
「毎日毎日、布団を干すほどの寝汗? そんなの信じられないもーん」
「……信じたくないなら、信じなくていい」
 大河は首をかしげた。士郎がもっと真っ赤になって言い訳すると思ったのだ。士郎の口調には真実の響きがあった。毎日布団を干すほど寝汗を掻くなど、そんなことがあるのだろうか。むむむと唸りながら熟考し、大河はすぐに考えるのをやめた。わからないものは考えてもわからない。わかるまで訊けばいいだけのことだ。
「ほんとに? 夜に怖い夢でも見てるんじゃないの?」
 士郎はゆっくりと振り返った。視線が合う。大河は思わず首をのけぞらせてしまった。そのまま動けなくなる。
 異様な瞳だった。昆虫のように無機質で、死人のように虚ろだった。
「見るよ」
 絶句した大河の顔を見据えたまま、士郎はぽつりと呟いた。士郎はすぐに大河から視線を外す。同時に大河の呪縛も解けた。
「ど、どんな夢? やっぱり怖い夢?」
「全部、燃える夢」
 士郎はぼそぼそと返事をした後、下を向いてむっつりと黙りこんだ。
 燃える夢ということは、やっぱり火が怖い夢なんだろうなーと大河は思った。火が怖い夢といえば、割と見る人間は多い。特にここ最近の冬木市では顕著だ。
 新都で大火災が起こり、たくさんの人間が焼け死んだ。まだまだ心の傷が癒えていない人も多かった。

 ――まさか……士郎もその一人なのだろうか?

 大河は腰をかがめて、斜め下から士郎の顔を見つめた。士郎の顔は平坦で無表情だった。
 きっと勘違いだ。大河はそう決め付けた。
 切嗣はもともとこの街の人間ではない。余所から来た人間だ。
 ならば、その子供である士郎も余所から来た人間のはずだ。あの大火災で母親を失ったのなら、こんなに落ち着いているはずがない。母親を亡くしたのは、もっと昔の話だろうと推測した。
 平然としているから、心の傷が浅いとは限らない。涙を流していないから、悲しんでいないとは限らない。素直に泣き、素直に笑う大河にはまだまだ理解できないことだった。その意味で大河の精神年齢は幼かった。
「……怖い夢を見るなら、今度一緒に寝てあげようか?」
 大河はできるだけ優しい口調で尋ねた。振り返った士郎は、いつもの生意気な士郎だった。
「タイガーと一緒に寝る? ありえねー! 夜中に寝ぼけてプロレス技をかけられるのがオチだ」
「言ったな! コイツー!」
 大河は士郎を捕まえて、わきの下をくすぐった。士郎は逃げだそうとして暴れる。大河は面白がってなおもくすぐった。士郎は全身を使って抵抗しだした。
 これだけくすぐれば、普通の子供なら我慢できずに笑い出す。
 それでも士郎はまったく笑おうとしなかった。黙々と抵抗を続ける。
 思えば士郎はまったく笑わない子供だった。意地で笑うのをこらえているのだ、大河はそう思っていた。だから今日こそは絶対に笑わせてやろうと決めた。
 二人は子猫がケンカするように縁側で戯れ続けた。大河が幾ら頑張っても、士郎は笑おうとしなかった。大河はますますムキになった。
 士郎は意地を張っているわけでも、嫌がっているわけでもない。笑わないのではなく、笑うことを忘れてしまっているのだ。大河はまだそれを知らなかった。

 もみ合う内に二人とも疲れ果てて、縁側に転がってしまった。仰向けになった大河の腕の中に、士郎も仰向けになって収まっていた。
 大河は士郎を人形のように抱きしめたまま、ぼんやりと空をあおぎ見た。やっぱりこうして抱きしめてみると士郎は軽い。まだまだ子供なんだな、と実感する。
 士郎は大河の腕の中から逃げようとしたが、大河はしっかり捕まえて離さない。力では勝負にならなかった。士郎もあきらめたらしく、体の力を抜いた。
 二人の瞳に流れる雲が映る。二人一緒にぼんやりと雲の動きを目で追った。
 荒れた呼吸が徐々に落ち着く。
 互いの心音が響き、体温が溶け合う。
 こうしていると、まるで姉弟のようだと大河は思った。何だかんだ言って、士郎も本気で嫌がっている様子はない。もしかしたら、もう仲良くなれたのかも知れない。大河はとても嬉しくなった。切嗣のことは抜きで、純粋な喜びを感じた。
 昔、両親に弟をねだったことを大河は思い出した。一時は毎晩コウノトリにお願いしていた。残念なことに願いは叶わなかったけれど。
 当時の記憶と共に、その頃の想いもよみがえった。弟ができたら、絶対に仲良くするんだ。ケンカなんかしない、と幼い大河は決めていた。
「……ねえ。士郎」
「なんだ?」
「タイガーって呼ぶの、やめて欲しいなー」
 自分が瞬間湯沸かし器なことぐらい自覚している。次にあだ名で呼ばれたら、またケンカになってしまうかも知れない。我慢し続けるのは無理だ。ケンカにならないためには、士郎に呼び方を変えてもらうのが一番いいだろうと思えた。
「……なんて呼んで欲しいんだ?」
 士郎にしてはめずらしく穏やかな声だった。今ならどんな呼び方でもしてくれそうな気がした。
 うーんと大河は唸る。『お姉ちゃん』というのも捨てがたい。というか、かなり魅力的だ。しかしながら、大河が目指しているのは切嗣のお嫁さんだった。その場合、士郎は義理の息子になる。お姉ちゃんでは目標から遠ざかるような気がした。

 ――いっそ『お母さん』というのはどうかな。まだまだ先の話だけど

 先の話どころか、可能性はゼロだと言っても間違いではない。切嗣は優しい笑みで大河の訪問を歓迎するが、一人の女性として見ている様子はない。それに気がついていないのは大河本人だけだった。
 大河は軽い冗談のつもりで言ってみることにした。
「うん。そうだねー。なんなら、お母さんって呼んでくれても――
 ――痛いっ!?」
 いきなり右手に鋭い痛みが走った。同時に士郎が大河の上から跳ね起きる。
 大河も起き上がり、右手を顔の前にかざした。手首に歯型がついて、血がにじんでいた。
「――このっ!?」
 頭に血が上った大河は、士郎にお仕置きをしようと立ち上がった。
 そのまま足を踏み出そうとして――

 大河はびくりと身をすくませた。
 士郎は縁側の上で四つんばいになり、歯を軋らせていた。
「違う……」
 獣のような目つきで大河をにらむ。
 怒り。憎しみ。悲しみ。これまで一度たりとも大河に向けなかった、本気で拒絶する表情だった。
「お前なんか……。お前なんか、お母さんじゃない!!」
 一声叫ぶと、士郎は脱兎のように逃げ出した。
 大河は呆然として、後を追うことすら忘れてしまった。



                 ◇  ◇  ◇



 太陽が地平線に近づき、赤く染まる頃になって、切嗣は衛宮邸に帰ってきた。玄関脇を見て、怪訝そうな顔をする。
 玄関脇に大河が座り込んでいた。見捨てられた子供のように直接地面に座っている。切嗣は苦笑した。また士郎とケンカしたのは間違いない。
「大河ちゃん。そんなとこに座ってないで中に入ろう」
「……士郎が」
 地面を見つめたまま大河が呟く。切嗣は首を傾げた。どうも普段のケンカとは様子が違う。こんなに落ち込んだ大河は見たことがない。
「……士郎が、帰ってこないんです」
 大河の眼からぽろぽろと大粒の涙がこぼれだす。
 切嗣は驚きつつも、ポケットからよれよれのハンカチを差し出した。人を安心させる優しげな笑みを浮かべる。
「なにがあったんだい?」
 大河は泣きながら説明した。
 士郎にあれほど手ひどく拒絶された理由がわからなかった。
 仲良くなれた気がしていた直後のことだけに、余計に悲しかった。
 士郎が帰ってきたら、謝りたかった。
 だが、いくら待っても士郎は帰って来なかった。
 しゃくりあげる大河の頭に手を置くと、切嗣は大河の髪を優しく撫でた。
「ごめんね。大河ちゃん」
「なんで、なんで切嗣さんが謝るんですか……!
 悪いのはわたしなのに! 士郎を傷つけたわたしなのに!」
「いや。僕がきちんと話しておけば良かったんだ」
 切嗣は泣き叫ぶ大河の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。
「士郎がいる場所はわかる。二人で迎えに行こう。大河ちゃんの家にある車を貸してくれるかい?」
 切嗣は大河を片手で拝むようなポーズを取った。切嗣らしい配慮だった。切嗣だけで士郎を連れ帰っても、二人の関係は元に戻らない。大河と一緒に、士郎を迎えに行くための口実だ。
 大河にも切嗣の配慮は伝わった。いつまでも泣いているわけにはいかない。
「――はい!」
 涙を拭いて、きっぱりとうなずいた。



 二人は雷画に頼み込んでベンツを借りた。孫に甘い雷画は、細かいことを何も訊かなかった。
 切嗣は運転席に収まり、手馴れた手つきでベンツを操っている。
 切嗣は迷いなく車を進めていく。士郎がどこにいるのか、切嗣には確信があるらしい。士郎がよく買い物に行く商店街にも、遊びに行く公園にも立ち寄らなかった。新都の中心部に向かってベンツを走らせる。
 やがて、車は新都の一画についた。

 そこは一面の荒地だった。
 焼けた土。
 今もなお転がる家の残骸。
 熱で曲がった鉄骨。溶けたガラスのオブジェ。
 異様なのはモノだけではない。この場所に近寄っただけで、大河はぞっとするような雰囲気を感じ取った。できれば用があっても近づきたくない土地だった。
 ここは、五百人もの死者を出した大火災の跡地なのだ。
 最近ようやく復興工事が始まったが、夜になれば工事の人間もいなくなる。
 まるで無人の荒野だった。墓場よりも濃く死の気配が充満していた。
 夜になると、風に乗ってうめき声や悲鳴が聞こえてくるという噂まである。
「切嗣さん……ここって」
「うん。例の大火災があった場所だよ」
 切嗣は廃墟の中を進み始めた。大河もおっかなびっくり後を追う。
 既に夕日は沈みかけている。地面に転がっているものが、何なのかよくわからない。
 大河の足が黒くこげた何かを踏んだ。踏みつけたモノが音を立てて割れる。大河は思わずビクリと身をすくませた。
 ……ただの焼けた柱だった。知らず知らず、安堵のため息が漏れた。
 嫌な記憶が脳裏に浮かぶ。蛍塚が教えてくれた噂話だ。
『知っている? 例の場所で復興作業が始まっているでしょ。あそこである日、工事の人が夜中に黒く焼けた丸太を踏んだらしいんよ。
 …………そしたらどこからか”痛いっ”って子供の声が聞こえたんだって。その人が足元をよく見ると、それは焼けた丸太じゃなくて…………』
 ぶるぶる、と大河は身を震わせた。
 大火災の後、焼死体はすべて回収されたはずだと自分に言い聞かす。
 確かに、ひどい火事だった。あの夜、冬木市全体が昼間のように明るかった。焼け死んだ人たちはほとんど原形を留めていなかったらしい。焼け残った骨がどこかに残っている可能性もゼロではない。大河にとっては、前に進むことすら怖かった。
 
 切嗣は黙って歩く。大河は沈黙に耐えられなくなった。
「――なんで、士郎がここに居るってわかるんですか?」
「士郎を迎えに、ここへ来るのは初めてじゃないんだ。もう何度も来ている」
 切嗣は振り返らずに答えてくる。
 士郎が時々いなくなることは大河も知っていた。だがまさか、こんな所にきているとは想像できなかった。ここは大人ですら寄り付かない場所だ。
「なんで、士郎はこんなところに来るんですか?
 ……切嗣さんたちは、余所の土地から来たんですよね?」
 ジャリ、と音を立てて切嗣の足が止まった。大河の足も思わず止まる。
 振り返った切嗣は、大河が初めて見る顔をしていた。
 笑顔が崩れ、顔色は青ざめていた。表情の裏に悔恨と悲哀が透けていた。
 大河は切嗣が声をあげて泣き出すのかと思った。それほどつらそうな顔をしていた。
「僕は…………」
 切嗣は一瞬だけ迷いを見せた。だが、すぐに鉄の仮面をかぶる。切嗣の表情から一切の感情が消えた。スイッチを切り替えたような唐突な変化だった。
「いや、なんでもない。はは。大河ちゃんと話していると、なんでも告白しそうになって困るな……」
 切嗣が自分の知らぬ闇を抱えていることに、大河はようやく気がついた。切嗣は大河の目を見ようとしなかった。夕闇に向けて、独白じみた言葉を続ける。
「確かに僕は余所の土地から来た人間だ。でも士郎は違う。この街で生まれ育った人間なんだ」
「じゃあ……!」
「うん。士郎は養子なんだよ」
 大河の足元がぐらりと揺れた。懸命にめまいをこらえる。
 養子。義理の息子。当然、本当の両親は別にいる。
 いや、違う。別に『いた』はずなのだ。それもごく最近まで。
 どこに? ここまでヒントを貰えば誰でも判る。だが、思いつけない。思いつくのが恐ろしかった。
 大河の胸にズキリとした痛みが走った。うつむいて胸を押さえ、懸命に呼吸を整える。

 ――自分は士郎に何を言ってしまったのか。士郎はソレをどんな思いで聞いたのか

 切嗣が再び歩き始めた。自分を放置して無言で進む切嗣に、大河はわずかな怒りを憶えた。足元をふらつかせながら、夢中で切嗣の後を追う。
 大河には切嗣が何も言ってくれない理由が見当つかなかった。
 理解するするだけの余裕もない。
 怒りが自分に力を与えてくれたことがわからなかった。
 歩くのに必死で、余計なことを考えずに済んでいるのもわからなかった。
 前へ進む内に大河は徐々に落ち着いてきた。切嗣が事実を受け入れる時間を取ってくれたおかげだった。
「きゃ――!」
 大河の足が何かに引っかかった。危うく転びそうになった。
「大丈夫? 大河ちゃん」
 切嗣が心配そうに戻ってきた。大河の怒りが消え、安堵の感情が沸きあがる。
「ええ、大丈夫です。でも何が……」
 大河は自分がけつまずいたものに目をやった。
 見た瞬間、ぎょっとした。それは人型だった。カタチのせいで、焼け死んだ子供かと勘違いしかけた。
「人形……だね」
 てのひらに胴体が収まるほどの小さな人形だった。黒くススで汚れ、あちこちが溶けていた。目鼻の形も残っていない。辛うじて、四肢の見分けはつく。

 ――何故、この人形は燃え残ったのだろう?

 大河は好奇心に駆られて人形を拾い上げた。バラバラと土が落ちる。
 金属のきしむ音で疑問はすぐに解けた。この人形は金属製なのだ。
 小さな斧を持ったブリキの人形だ。恐らくはキコリの人形だろう。胸元に大きな穴が開いていて、中は空洞になっていた。その空洞は何かを収めるための穴に見えた。
 大河は何故か、人形から目が離せなくなった。
 何かが気になる。この人形をどこかで見たような気がした。
 しかし、どうしても思い出せなかった。
「行こうか」
 切嗣は大河を促すと、再び進み始めた。大河は少し迷ったが、その人形を持ったまま切嗣の後に続いた。何故か、捨て置くことができなかったのだ。


 夕日が沈む。段々と辺りが暗くなってきた。
 吹き抜ける風の唸りが、ともすれば不気味なうめき声にも聞こえてくる。
 大河はお化けや怪談は苦手だった。こんなところに士郎は居ないと思いたかった。少しでも早く帰りたかった。
 だが、切嗣は迷いなく進んでいく。大河はついて行くしかなかった。
 崩れた塀や焼け落ちた壁の隙間の陰から、何かが飛び出してくる妄想に大河は怯えた。
 それでも何とか踏みとどまった。ここで逃げてしまえば、もう一生士郎の顔をまともに見れなくなる。その恐怖のほうが強かった。
 やがて、切嗣の歩みが止まった。正面には焼け落ちた家があった。いや、正しくは家の残骸だ。
 柱も壁も塀も、何一つ元の原型を留めていない。家だと思って見なければ、家の残骸であることすら見分けがつかない。
  その残骸の前に、こちらに背を向けて、ぽつんと男の子が座っていた。赤毛が夕日に強調されて、血のような色合いになっていた。泣いているのだろうか、と大河は思った。
 勇気を出して一歩進む。言葉は自然と出てきた。
「あの……。ゴメンね、士郎。わたし、知らなくて。ううん、知らなかったからと言って、許されることじゃないケド――」
 士郎はピクリとも反応しない。大河の声は段々と小さくなって、最後には自分でも聞こえなくなってしまった。
 誰も何も言わない。風の音だけが周囲に響く。それが死んだ人々の怨嗟の声のような気がして、大河は怖くなった。ここが士郎の原風景だとすれば、士郎はこの呪いに囚われているのだ。
 大河は動けない。動いたのは切嗣だった。
 座り込んだ士郎の横に並び、膝を曲げてかがむ。
 切嗣は軽く掌でポンポンと士郎の頭を叩いた。そのまま軽く頭を撫で続ける。
 しばらくして、切嗣はポツリと士郎にささやきかけた。
「士郎。帰ろう――」
 切嗣はゆっくりと立ち上がった。士郎も切嗣にすがるように立ち上がっていた。いつの間にか、士郎は切嗣のズボンの布地を握り締めていた。
 アレほど頑なに見えた士郎を、切嗣があっさり諭したのが不思議だった。
 二人の絆は、自分が思うよりも遥かに強いのだろう。
 それがうらやましくて、悔しかった。
 士郎は切嗣に捕まりながら歩く。ずっと座っていた士郎の歩きは、どこか不自然だった。ギクシャクとした動きは、油の切れたロボットのようだ。
 その姿を見て、大河は腕の中の人形が何なのかようやく思い出した。

 竜巻によって異国に運ばれた少女の話。彼女は故郷に帰るために旅をする。
 旅先で仲間と知り合い、彼らと共に魔法使いに会いに行く。
 仲間たちはみんな何かが足りない。
 仲間の一人、ブリキのキコリには心臓がない。
 心臓がないから、心がない。愛を忘れてしまったと嘆く。

 自分が人形を捨てられなかった理由もわかった。似ているのだ。
 子供らしい笑顔も愛嬌も忘れてしまった少年に。
 頑なに愛されることを拒否する少年に。

 切嗣と士郎が大河の横を通り過ぎた。
 大河は二人の後を追わずに、逆に前へと進み出た。
「……ごめん、なさい……」
 大河は目を閉じて、静かに頭をたれた。
 戯れに『お母さん』と言ったことを謝りたかった。
 士郎にとって『お母さん』とは、ココで亡くした人のことなのだ。
 士郎が切嗣を『お父さん』と呼ばない理由もわかったような気がした。士郎の『お父さん』と『お母さん』は、まだココにいるのだ。
 目尻が熱くなる。昼間の軽率な行動を泣いて謝罪したかった。
 風の音がうめき声に聞こえた。死んだ人の恨み言を聴かされている気がした。いつの間にか、大河は自分自身を抱きしめるように身を縮めていた。この土地の雰囲気に当てられているのだ。
 ここは『この世すべての悪』が猛威を振るった場所。空間の中に、悪意の残滓が染み付いていた。
 大河は何もかも捨てて逃げ出したくなった。家に帰って頭から布団を被りたかった。
 
 後ろで足音がした。
 怯えた大河は、今度こそなりふりかまわず逃げ出しそうになった。逃げずに済んだのは、小さな影が発した一言のおかげだった。
「…………ごめん」
 何故、士郎が謝るのか理解できなかった。傷つけたのは自分の方だ。
 わけがわからなかった。大河は振り向くことも出来ずに固まってしまう。
 それを拒絶と受け取ったのだろうか。士郎は少し逡巡した後、もう一度謝ってきた。
「ごめん……姉ちゃん」
 士郎の呼びかけに深い意味はないはずだ。さすがにこの場では『タイガー』とは呼べず、代わりの呼び方を捜しただけの話だろう。

 でも、もう駄目だった。放り出して逃げられるはずもない。
 そんな口調で一度でも『姉ちゃん』と呼ばれたなら、大河にとって士郎は弟だった。

 士郎は何故謝るのだろうと大河は考えた。士郎の方がつらいはずだ。
 士郎はここで何もかも失ったのだ。つらくないはずがない。
 それでも大河を気遣うのなら――まともではない。
 きっと、何かが歪なのだ。
 自分が傷ついていることに気がつかないほど歪なのだ。
 それはどこかブリキのキコリの話を思わせた。彼は元々は人間だった。魔女の呪いで手足を失っても、彼は気にしなかった。ブリキの手足をつけて、他人のために働き続けた。その内、全身がブリキになって、暖かい心をなくしてしまった。
 似ていると思った。士郎も自分のことを振り返らず、傷ついても傷ついても他人を助けることばかり考えていた。そんな場面を大河は既に何度か目にしていた。
 どうしたらよいのだろう、と大河は思った。
 このままではダメだ。士郎には何か大切なものが欠けている。
 このままいけば、士郎は自分が傷ついていることもわからずに傷を深くしていく。いつか倒れて動けなくなる日まで、他人のために生き続けるだろう。自分が血を流しているのも知らずに、他人の傷だけを心配するのだ。
 記憶を探る。ブリキのキコリはどうやって心を取り戻したのか。魔法使いの力ではなかったはずだ。

 ……思い出した。
 彼に心を取り戻させたのは、仲間たちとの絆だった。
「ごめんなさい」
 大河は顔をあげて呟いた。先程とは違う意味での謝罪だった。
「……ほうって置けないんです。誰かが支えないとダメだと思うんです。
 ……だから、ごめんなさい。士郎は連れて帰ります」
 大河はブリキの人形をそっと撫でた。人形はここに置いていくことにした。気休めでも、亡くなった人たちの魂に安らいで欲しかった。
 焼け落ちた家の前に、そっと人形を置く。人形の頭部が夕日を浴びて赤く染まっていた。
 大河は後ろを振り返った。少し先で、切嗣が大河を待っていた。士郎は下を向いたままだったが、やはり大河を待っていてくれた。
 大河は涙でくしゃくしゃになった顔で、士郎に笑いかけた。
「――帰ろう。士郎」
 もう風の音も、夜の闇も、大河は怖くなかった。
 手を繋いで帰る三人を、焼けた家の残骸と壊れた人形が見送った。
                 ◇  ◇  ◇



「お姉ちゃんと呼びなさいっ!!」
 翌朝、衛宮邸を訪れた大河は、開口一番そう叫んでいた。
 あまりにも唐突な発言に、士郎はおろか切嗣まで目を丸くしている。
 昨夜一晩、さんざん悩んでの結果がコレである。枕相手にやった仲直りのリハーサルなど頭からすっ飛んでいた。本当は段取りを踏んだ上で、『お姉ちゃんって呼んで』と優しく話しかけるつもりだったのだ。しかしながら、士郎の『また来た、コイツ』みたいな顔を見た瞬間、計画も手順も全部吹き飛んでしまった。
 自分でも『しまった!』と思ったらしい。大河の額にひとすじの汗が浮いていた。
 ……ある意味、当然の結果ではあった。きちんと練習通りにできるなら、『タイガー』などとは呼ばれていない。

 大河は気合を込めて士郎を見据える。はっきり言って人相が悪い。本人は気がついていないが、寝不足で目の下にクマもできていた。
 それでも何とか気合だけは伝わったらしい。
 士郎は味噌汁のナベをテーブルの上に置くと、大河に向き直った。
 こちらの表情も真剣そのものだ。
「……そう呼んで欲しいのか?」
 大河の目が輝く。予想外に良い反応が得られて、言葉も忘れてしまったらしい。大河は無言でコクコクとうなずいた。期待に満ちた視線を士郎に向ける。
「よし……じゃあ、呼ぶぞ」
 妙に気合を入れて、士郎は深呼吸をした。大河はぐっと前のめりになった。

「――タイガー姉ちゃん!!」

 一声叫ぶと、士郎は逃げ出した。感嘆するほど見事な逃げ足だった。
 昨日が脱兎の勢いならば、今日はピンポンダッシュの達人だ。
 呆然とする大河の脇を抜け、あっという間に士郎は居間から脱出した。
 クククという切嗣の笑い声で、ようやく大河は我に返った。
「うわあああああああぁん!! タイガーって呼ぶなああああっ!!」
 大河はどたどたと足音を響かせながら、士郎の後を追う。既に半泣き状態だった。妙に期待させてくれた分、お仕置きをしなければ気がすまない。
「タイガー姉ちゃんでいいじゃん! タイガー、タイガー! タイガーマス……」
「歌うなあぁー!? ソコに直れー! 成敗してくれるわああぁん!!」
 どっすん、ばたんと家中を騒がせながら、二人は追いかけっこを始めた。
 士郎は地の理と、小柄な身体を生かして逃げ回る。大河は自分でもわけのわからないパワーで追い回す。今日は大河が優勢らしい。追い詰められた士郎は叫んだ。
「くそ、しつこいっ! わかった、藤村タイガー姉ちゃんでどうだ!?」
「タイガーを取れえぇー!!」
「藤村ティーガー姉ちゃん!」
「なんとなくかっこよさげ!? ティーガーって何っ!?」
 一瞬だけ静かになった。どこか自慢げに士郎が答えた。
「爺さんに教えてもらった。第二次世界大戦のドイツ名戦車――訳すと虎」
「虎から離れろー!?」
 わめきながら二人はまた走り出した。常人ならとっくに息があがっている運動量だ。
「かっこいいと思うんだけどなあ。ティーガーU……」
 切嗣はポツリと呟いた。兵器マニアで、ドイツ車マニアっぽい発言だ。
「あーわかった! 藤村姉ちゃん! これでどうだ!?」
「素直にお姉ちゃんって呼べーーーー!」
 叫び合いながらの追いかけっこは、まだ続いている。
 切嗣は二人の体力が尽きるまで、のんびり待つことにした。タバコに火をつけて深々と吸い込む。

 大河は気がつかなかったようだが、切嗣にはわかっていた。
 テーブルの上には、三人分の朝食が用意されている。
 士郎はピンクの子供用エプロンを着けていた。
「まったく……士郎も素直じゃないなあ」
 切嗣はわずかに笑った。他人を安心させるために作った笑顔ではない。自然と浮かんだソレは、どこか救われたような笑みだった。



 ――第一印象は最悪だった
 ――無愛想で、怒ったような口調
 ――子供らしい可愛げなんて、カケラも無かった
 ――家族と一緒に、笑顔はもちろん、暖かい心もなくしてしまったんだろう
 ――カラッポの心臓にブリキの体。鋼は傷つかない。その代わり誰も愛せない
 ――それなら、わたしがこの子の 心臓 (家族)になろう
 ――いつか、この子が心の底から笑えるように。愛する誰かを見つける日まで

writed by Heretic
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writer notes 《細かい補足》

・蛍塚の口調は「地は丁寧語」の設定より、イメージを優先しました。
・大河の誕生日がわからないし、復興工事はいつごろから始まるのか検討がつきません。そのためこの話の時期については、ちょっと曖昧にしてあります。基本的には第四次聖杯戦争の半年後〜一年半後くらいを想定しています。
・大河が結構泣き虫ですが、これはじょんのび亭さんの記述を参照しました。
・Fateはギャグが多いので、士郎はよく笑っているような印象を受けます。ところが実際のところ、士郎が笑っているシーンはかなり少なめです。屈託なく士郎が笑うシーンが出てくるのは、S/Nの各ルートごとに1〜2回程度です。
・士郎=オズの魔法使いのブリキのキコリについては、「コンプコレクションvol.2」52ページで奈須きのこ氏が例えとして話していました。その記載を思い出したのは、コレを書いた後だったりしますが……。
・見落とされやすいことですが、士郎は元の家を憶えています。これはFateルート十五日目『ほほをつたう』で確認できます。
・一度でも○と呼べば? HFルート十五日目『Nine Bullet Revolver』の一部を意識してみました。アレが元でアレの元みたいな。
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